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♪夕焼けこやけの赤とんぼ
 おわれて見たのはいつの日か♪

この詩を作った三木露風(1889〜1964)は本名を三木操と言い、兵庫県揖西郡龍野町(現在の龍野市龍野町)に生まれ、五才の時に両親が離婚し祖父の家に引き取られました。彼は幼少期から文学に親しみ、龍野高等小学校で出合った教師松本南楼の感化を受けて句作に励み、友人数名と謄写刷りの回覧雑誌「少園」を作りました。この時、わずか十三才の天才肌でした。この頃に発表したのが、
赤とんぼ とまっているよ 竿の先
です。

この句を原形に「赤とんぼ」が童謡雑誌の『樫の実』に発表されたのは大正十年(1921)八月、露風が三十二才の時でした。しかし、この詩に山田耕筰が曲をつけたのは、更に六年後の昭和二年(1927)になってからで、しかも『山田耕筰童謡百曲集』という譜面集に掲載されただけでした。

これがレコードになったのは更に四年後のことで、当時ナンバーワン童謡歌手と言われ、「すかんぽの咲く頃」でデビューした十二才の少年金子一男が歌いました。しかしながら、彼の人気をもってしても「赤とんぼ」はさして売れませんでした。けれども、それには理由があったのです。

山田耕筰という作曲家は、歌曲や童謡を作る時に、詩のアクセントに気を配ることで有名でした。たとえば、《雨》と《飴》は同じ発音ですが、アクセントの位置は全く反対です。「あめが降る」という歌詞の「あめ」が「あめ・ 」ならば《雨》ですが、「あめ ・」だと《飴》が降ってくることになってしまいます。すなわち、アクセントの位置は重要であり、詩の情景がすんなりと脳裏に浮かぶかどうかが、ヒットするかどうかの決め手でした。

ところがこの「赤とんぼ」は、珍しいほどのアクセント完全無視の歌だったのです。

夕焼け こやけの 赤とんぼ
おわれて 見たのは いつの日か

山の畑の桑の実を
こかごに つんだは まぼろしか

十五で ねえやは 嫁に行き
おさとの便りも 絶えはてた

夕焼け こやけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

この中で、二の段の〈つんだ・  〉と〈まぼろし・   〉はアクセントが逆です。通常の会話では〈つんだ  ・〉〈まぼろし ・  〉となる筈です。更に、三の段の〈嫁(よめ・ )〉も、本来は〈嫁(よめ ・)〉ですし、最後の〈竿(さお・ )〉も、本来は〈竿(さお ・)〉です。

根本的に、この歌はメロディーに対して詩の言い回しに、無理が多々有ります。

♪ ゆうやァけ こやけェの~
♪ おわれて 見たのォはァ~
♪ やァまァの はたけェの~
♪ とまァって いィるゥよォ~

これらはおそらくレコード化するために作られた曲ではなく、『譜曲百曲集』の数合わせのために数年前に作られていた詩をあてがっただけなのだろうと考えられます。だから、レコード化されてもあまりの食い違い人気が出なかったのだと思われます。

このチグハグな曲が急激に童謡の名曲になったのは、この曲が生まれて三十年近くも月日が経った昭和三十年のことでした。それは、松竹映画『ここに泉あり』(今井 正監督、小林桂樹・岸 恵子主演)のワンシーンでこの歌が使われたからです。

この映画は、終戦後、すさんだ日本人の心を和ませようと群馬県高崎市で市民フィルハーモニーが結成されたというものです。しかし、懸命な努力にもかかわらず、現実には楽団員たちの生活すらもままならず、脱会者が相次いでしまいます。そうした中で残ったメンバーは、山奥の小学校や療養所を回り、自分たちの音楽を楽しみ喜んでくれる人々と出会います。山の子どもたちは、峠までー行を見送り、別れを惜しんで声高らかに歌ったのが、「赤とんぼ」だったのです。この感動のシーンでの挿入は、アクセントの違いなどを吹き飛ばしてしまったのです。

映画を見た人々からすぐに「子どもたちが歌っていたのは、何という歌か?」という問い合わせが殺到し、この古い童謡がズームアップされたのです。当時は、「トロイカ」や「カチューシャ」といったロシア民謡に日本語を付けたものも多かったため、アクセントの違和感はあまり問題にされなかったのです。

しかし、後になって議論が沸き起こったのはアクセントの問題ではなく、♪おわれて 見たのは、の〈おわれて〉の部分でした。最近ではこれを、〈追われて〉と勘違いして「赤とんぼに追われている」または「網で赤とんぼを捕まえようと追っている」と思っている人もあるようですが、正しくは〈追われて〉ではなく〈負われて〉なのです。じゃあ、誰の背中に負われて赤とんぼを見たのか?というと、これは母親ではなく十五で嫁に行った姐や、です。では、三木露風には母親がいなかったのか?というと、母親の「かた」は、露風が六才を迎える年に父と離婚して住んでいた揖西郡龍野町から実家のある鳥取に戻っています。しかし、背負われていたとすると六才よりは下の年齢と考えられますから、背負っていたのは当時女中さんと呼ばれていた子守奉公の女の子であると考えるのが妥当です。

この答えは、昭和十二年(1937)日本蓄音機商会から発行された「日本童謡全集」の中に露風自身が『「赤とんぼ」の思ひ出』として書いていました。
「私の作った童謡『赤とんぼ』は、懐かしい心持ちから書いた。ふり返って見て、幼い時の自己をいとほしむという気持ちであった。まことに真実であり、感情をふくめたものであった。『赤とんぼ』の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負うて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである」
となっていました。つまり、背負っていたのは姐やだったのです。ということは、母がまだ居た頃から姐やが居たわけですから、かなり裕福な家柄であったわけです。

露風の祖父は、初代の龍野町長を務め、銀行の頭取の要職にも就いた、いわゆる町の名士でした。
しかし、露風の父はその次男に当たり、何不自由なく育ったためか、自由奔放で身持ちが悪く、母が実家に戻った後すぐに後妻を迎え、弟も生まれています。

一番母親が恋しい時代に引き裂かれた露風にとって、姐やが母親代わりであったことは容易に想像できます。母を思い悲しむ切ない胸の内がこの童謡を作り、名曲に育てたのです。
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