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結婚披露宴の祝辞の際に必ず出てくる話が二人三脚です。

「夫婦は二人三脚です。お互い歩調を合わせ、気を合わせなければ転んでしまいます。どうか、心を一つにして人生を共に歩まれますように心掛けて下さい」

というような挨拶です。どんな人の結婚披露宴でも、必ずといっていいほど聞かされる文句です。

では結婚とは、お互いが不自由を思いやりながら暮すことなのでしょうか?。確かに生まれ育った環境も、生活体験も違う二人の人間が一つ屋根の下で暮らすのですから、衝突があっても不思議ではありません。しかし、反面では<この人と一緒になったからこそ味わえる喜び>があることも忘れてはなりません。お互いが、恩愛という絆によって繋がれているのが夫婦なのです。

この夫婦の絆について、ある披露宴でさまざまな意見が飛びかいました。

ある人が、
「ヨーロッパに伝わる話ですが、誰もがコインの半分を持って生まれてくるそうです。その赤ん坊が男の子であれば、あとの半分は女の子が持っているのです。女の子であれば、あとの半分は男の子が持っているのです。そこで、男女が成人すると、自分が持っているコインの残りの半分を捜し求めるのです。そして、その持ち主に出会った時、結婚する相手はこの人だと思うのであります。このように、伴侶となるべき男女は、すでに運命によって定められているのです」
と、うまい話をしました。

次に指名された人は、
「先ほどの方は、コインのお話をされました。ですが、そのコインは初めから二つに割れていたのです。それが一緒になるということは、接着剤がなくてはなりません。では、その接着剤は何なのでしょうか?。「二人は一緒になる運命なのだから、接着剤などいらないのだ。磁石の如く、引き寄せられる。それが運命なのだ」とお考えのようでありますが、運命と申しましても、決して幸運だけとは限りません。不運もあれば、悪運もあります。そんな運に繋ぎ止められたら、大変なことになります。結婚には愛情がなければなりませんが、愛情だけでなく、お互いに信頼し合うこと、全面的信頼が必要なのであります。愛情と信頼こそが、二人の接着剤であります」
と、今度はコインの接着剤になぞられて、愛情と信頼の、世にも美しい話をしました。

次に指名された方は、七十才前後のご婦人でした。
「今、お二人の方が大変見事なお話をなさいました。コインの接着剤は、愛情と信頼だとのお話でしたが、でも愛情なんてものは、三年もすれば消えてしまいます。信頼も、針に刺された風船みたいに、ほんの小さな疑いで、あっという間にしぼんでしまいます。

では、最後に残る接着剤は何でしょうか?。それは辛抱です。辛抱する気がなかったら、早いとこ別れた方がええのです。私は結婚して五十年になりますが、お互い辛抱してここまできたのです」と、言われました。この話を聞いて、その場に居合わせた女性のほとんどが深くうなずきました。

さて、この夫婦を繋ぎとめている絆を【縁】だとするのが仏教です。もちろん、両者の愛情や信頼・辛抱を否定するわけではありません。しかし、どんなに歩み寄っても駄目なものは、【縁】が無いのです。二人の心の鏡が、真正面から向かい合っていなければ、どんな接着剤があろうとも破局は時間の問題です。

《両鏡 相照らして 中心 影像(ようぞう)無し》

と言われるように、二つの鏡が真正面から相照らしていれば、互いのすべてがわかるし、余分なものも写りません。しかし、どちらか片方が斜めを向き出すと、相手のすべてがわからなくなるばかりか、相手の鏡にも他のものが写るようになってしまいます。

15年ぐらい前から、夫婦の心の通い合いが希薄になったと言われています。亭主は家で「飯、風呂、寝る」としか言わない。その結果が、定年離婚の増加につながっているのです。確かに「飯、風呂、寝る」といった調子で、自分の要求しか言わない亭主が、定年で毎日家にいたら、女房はめいってしまいます。逆に「今日は会社の出張で……」と言えば、正直なところ、ホッとするそうです。

『平成サラリーマン川柳傑作選』(講談社刊)に

「出張日、女房手を振る 眼が笑う」

というのがあります。なかなか核心をついていると思いますが、どうでしょうか?。また、

「父帰る 一番喜ぶ 犬のポチ」


というのもあります。いつの間にか子供にまでそむかれて、孤立してしまうのです。

そういえば、しばらく前のテレビのCMで、朝、お父さんが出かける時に子供がトーストを食べながら

「バイバイ、また明日ね〜」

というのがありました。お父さんは朝早くから出かけ、帰ってくるのは子供が寝てからなので、次に子供と顔を合わすのは明日の朝だというのです。初めてこのCMを見た時、非常に寂しい気がしたのは、私だけではないと思います。

いや、もっと凄いのもあります。前出の『平成サラリーマン川柳傑作選』に

「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」

というのがあります。これでも家族と言えるでしょうか?。

でも、これも現代の社会情勢を考えると仕方がないのかもしれません。若くして結婚しても、とても都心になんて住めません。 銀座では青空駐車場(屋根無し)で月の駐車料金が15万だそうですから……。遠くに行くほど、家賃も安くなるはなるのですが、逆に通勤時間が長くなるのです。したがって、暗いうちに出勤し、夜遅くに帰宅するというようになってしまうのです。全くもって、お気の毒です。

しかし、このように会話の少ない夫婦であっても和合してやっていくためには、それぞれが【相手(夫または妻)がいるだけでありがたい】と感謝し、互いに布施し合うということが大切です。

布施と施しは違います。施しが布施になるためには、施す側の人が「施してやった」という優越感を抱いたり、代償を期待してはなりません。また、施しを受けた側が「お返しをしなくては………」と考えたり、卑屈になってしまっては布施になりません。施す側が「施すことができて、ありがたい」と思い、施しを受けた側が「おかげさまで、ありがたい」と思うのでなければ、布施とは言えないのです。

また、施すというと、施す物が無ければと思われがちですが、施す物はなにも金品でなくても良いのです。もっと言えば、【いる】だけで布施になるのです。特に夫婦の場合、【いる】だけで布施になるのです。【いる】ことで、互いに安心を分かち合っているのです。与えるだけで要求しないのが布施なのです。でき得る限りの施しをして、初めて施しが布施になるのです。施しが「程を越して」こそ布施なのです。「この程度で……」なんて限界は無いのです。
そう考えると、オー・ヘンリーの短編小説『賢者の贈り物』の意味もわかります。若い夫婦は、貧しくてお金が無い。でもお互い、クリスマスにプレゼントをあげたかった。そこで、妻は自分の長い髪を切って売り、夫の金時計の為の金の鎖を買った。夫は、妻の長い髪の為に大切にしていた父の遺品の金時計を売って金の櫛を買った。二人はクリスマスにプレゼントを開けて驚き、幸せな気持ちになった、という話です。プレゼントは無駄になってしまったけれども、お互いにとって、こんなすばらしいプレゼントはなかったのです。

互いに布施し合うことが夫婦円満の秘訣です。
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