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遠い昔、棄老国と言われる老人を捨てる国があったそうです。その国の人は、誰しも年老いると遠い野山に棄てられる掟になっていました。

この国の王に仕える大臣の中に、いかに掟とはいえ、年老いた父を棄てることができず深く大地に穴を掘って部屋を作り、そこに匿(かくま)って孝養を尽くしていた人がいました。

ところが、この国に一大事がこの国に起こりました。

突如として帝釈天が現われ、この国の王に難問を投げかけました。

「ここに二匹の蛇がいる。この蛇の雌雄を見分ければよし、もしわからぬならば、この国を滅ぼす」

と、言いました。ところが、王をはじめ宮殿にいる者は、誰ひとりとして蛇の雌雄を見分けられませんでした。国の存亡に関わる一大事ですので、王は国中に布告して、<見分け方を知っている者には褒美を与える>としました。

この難問を、父をかくまっていた大臣が家に帰って尋ねると、父は

「そんなことは簡単なことだ。柔らかい敷物の上に二匹の蛇を置いてみよ。その時、騒がしく動くのが雄であり、動かないのが雌である」

と答えました。大臣は父の教えの通りに王に語り、それによって蛇の雌雄を知ることができました。

すると次に帝釈天は、

「巨大な象の重さは、どうやって量るか?」

と問いました。すると、大臣の父は

「象を船に乗せ、船が水中にどれだけ沈んだかを印をしておくのだ。次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せ、その石の重さを足せば良い」

と答えました。

すると次に帝釈天は、

「ここに真四角な栴檀(せんだん)の板がある。この板はどちらが根の方であったか分かるか?」

と問いました。すると、大臣の父は

「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。それによって根の方を知ることができる」

と答えました。

すると次に帝釈天は、

「一すくいの水が、大海の水より多いというのは、どういうことか?」

と問いました。すると、大臣の父は

「清らかな心で一すくいの水を汲んで父母や病院に施せば、その功徳は永久に消えない。大海の水は多いといっても、ついには尽きる時がある。これを言うのである」

と答えました。

すると次に帝釈天は、骨と皮ばかりに痩せた飢えた人を出して、

「世の中に、私よりももっと飢えに苦しんでいる人があるだろうか?」

と言わせました。すると、大臣の父は

「ある。世にもし心が頑なで貧しく、仏法僧の三宝に帰依せず、父母や世話になった恩人に供養もしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして後の世には餓鬼道に落ち、長い間飢えに苦しまなけれならない」

と答えました。

これらの難問に対する答えは帝釈天を喜ばせ、また王をも喜ばせました。そして、王はこの智慧が実は大臣が密かに匿(かくま)っていた老いた父親から出たものであることを知り、これを機に老人を棄てる掟をやめ、年老いた人に孝養を尽くすように命じたというのです。



現代の日本では、若くて健康であることに価値がある、と思われています。「老人」という言葉は、不快感を与える表現になりつつさえあります。しかし、もともと中国においては「老」という字は円熟して豊かであることを表す尊敬語だったのです。禅宗で修行を重ねた指導的立場にいる和尚のことを「老師」と言うのは、それゆえです。

棄老国の国王に対して帝釈天が投げかけた難問に全て答えられたのは、大臣の匿(かくま)っていた父の助言のおかげです。そこには長年の人生で培われた知恵があったからです。この話は「老人も役に立つから大切にせよ」ということではありません。

たしかに「蛇の雌雄の見分け方」「象の重さの測り方」「栴檀(せんだん)の板の上下」「馬の母子の見分け方」などは、この世に生きていく上で身につけた知識ですが、「一すくいの水」「飢えた人は誰か?」という問題は、仏の教えにつながるものです。仏の教えを学ぶということは、真理に目覚めて生きる身になろうとすることなのです。

たとえ、一すくいの水であろうとも、他人の為に<良かれ>という一念で差し出せたならば、その布施には大海にまさる功徳があります。そして、仏(覚った人)と法(仏の説く教え)と僧(法に目覚めた人)に帰依して生きる人こそ、飢えることの無い満ち足りた人生を歩む人なのです。
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