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宮沢賢治は、小さい頃、食卓に焼き魚が出ると、じっとそれを見つめて、

「この魚の親が、僕の後ろからじっと見ています。僕には食べられません」

と、涙ぐんで、お皿を押し戻したといいます。

宮沢賢治は、見ていながら見えていない世界を、見つめていたのです。その眼差しは、【慈しみ】の心から発せられるものです。

【慈しみ】は、サンスクリット語ではマイトレーヤ(maitri)と言い、ミトラ(友)という語から作られた抽象名詞で、《最高の友情》とでも言うべきものです。友達というのは、対等の立場で、相手の立っているところに寄り添って、ともに喜び、ともに悲しみ、励ますものです。つまり【慈しみ】というのは、その人なり、その物の置かれている立場に寄り添い、心身を尽くす営みであると言えます。

宮沢賢治の詩というのは、【慈しみ】の心から発せられた思いを綴ったものだからこそ、私たちに永遠の光を投げかけてくるのだと思います。これはなにも、詩に限ったことではありません。

劇作家・脚本家として活躍し、戦後の演劇界の第一人者と言われた菊田一夫という人がいました。彼は、明治41年に横浜で生まれました。

彼の家庭は複雑で、両親に捨てられて孤児となったあげく、何度も養子に出され、幼い頃は台湾で過ごしたそうです。小学校卒業間近には、大阪の薬種問屋へ丁稚奉公に出されたりもしました。こうした苦労続きの少年時代を過ごした菊田一夫さんの心に、いつしか詩心が芽生え、神戸にある夜間の商科実業学校に通いながら、詩の同人誌に寄稿したりしていました。

その後、上京して、萩原朔太郎やサトウ・ハチローとの出会いを経て、22才の時に古川ロッパのために喜劇を書いたのを機に、劇作家としての道を歩み、連続放送劇『鐘の鳴る丘』がヒットしました。さらに、昭和27年からの『君の名は』は、「女湯が空になるほどの大ブーム」を巻き起こし、映画化もされました。その後も、脚本家・演出家として活躍し、戦後の演劇界の第一人者となったのです。

その菊田一夫さんの若い頃の話です。17才で上京するまでの数年間で働いた職種は、数十種にも及んだそうです。その中で長かったのは、美術商の使い走りで、1日中、店で働いて暇になるのは夜の11時、銭湯に行って床につくのが12時、それから内緒で2時、3時まで本を読んだそうです。ある時、「電気を使い過ぎる!」と叱られたので、それからは一度電気を消して寝たふりをして、家中寝静まった頃に、こっそり起きて電灯をつけた、と自叙伝に書いてあります。

上京して、印刷工になったそうですが、やがて辞め、「金」になることなら何でもし、食事は1日1回、それも牛飯1杯(7銭)と決めて生きてきた、と言います。「どんな遠くでも、往復とも歩くことにした。それで、1日1杯の牛飯を食べるだけだから、いくら若くても、次第に体がマイッてきた。しかし、いくらマイッてきても、金が無いのだからそれより仕方なかった」そうです。

そんなある晩、寒風が吹きすさぶ中を、一夫さんはドヤ街の牛飯屋に入りました。いつもの通り7銭払って、あっという間に牛飯を1杯たいらげましたが、空腹は満たされる筈もありません。

仕方がない、そう思って、やおら立ち上がろうとすると、一夫さんの姿をじっと見つめていた、紺がすりを着た牛飯屋の親父が近づいて来て、

「なあ、今夜は売れ行きが悪くて、飯が余って困っているんだよ。もう1杯、食ってくれないか。腐らせるともったいないから……」

と言って、もう1杯の牛飯を差し出してくれたそうです。この親父も、苦労人だったのです。決して恩着せがましいことは言いませんでした。

一夫さんは、ただただ胸が一杯になりました。急いでその牛飯を食べ終わると、黙って立ち上がり親父に背を向けて、ドアを押して、外に出たそうです。外は雪でした。ドアが背後で閉まった音がした瞬間、溢れるように涙が、次から次へと流れ出ました。

<冬の夜だ、飯が腐るはずないじゃないか。売れ行きが悪いだって、そんなことはない、評判の店だということぐらい、知ってるぞ!> 一夫さんは、ドアの中の親父に怒鳴ってやりたかった。がしかし、あの牛飯を食べながら、なにか熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、何も言えなかったのでした。

孤児であり、人にだまされ続けた一夫さんは、おそらく初めて心から愛されたのです。牛飯屋の親父の温かい心は、彼の空腹を満たしたばかりでなく、心の空白も十分に満たせてくれたのです。

「私の文学者としての原点は、あの牛飯屋の親父の愛にあった」

一夫さんは、晩年、親しい人にこう語ったと言います。

ゲーテは、

「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」

と、言っています。涙を流す経験をしてこそ、他人の悲しみがわかる心が育てられるのです。

私たちは【慈しみ】の心を培い、相手の身になって、正しく考え、実践できるように努めなくてはなりません。
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